渋沢栄一の性癖?埼玉県民で深谷駅の銅像とからくり時計台が有名!

渋沢栄一の性癖?埼玉県民で深谷駅の銅像とからくり時計台が有名!

財務大臣を兼務する麻生太郎副総理より、20年ぶりとなる日本銀行券の刷新についての発表が行われました。同時に、新紙幣に使われるデザインイメージについても発表されました。

新一万円券:渋沢栄一:東京駅(丸の内駅舎)
新五千円券:津田梅子:フジ(藤)
新千円券:北里柴三郎:富嶽三十六景

新紙幣は、2004年より使用が開始されます。

新一万円札に肖像画が使用される渋沢栄一は、幕臣として徳川慶喜に仕えたり第一国立銀行の設立などを行っており、「資本主義の父」と呼ばれた実業家です。今までにも日本銀行券の肖像の候補とされて来た渋沢栄一氏について、話題を集めてみました。

埼玉県民の渋沢栄一

誕生日:1840年3月16日(天保11年2月13日)
出身:武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市血洗島)
死没:1931年11月11日(満91歳没)
職業:幕臣、官僚、実業家、教育者

渋沢栄一は、藍玉(天然インディゴの原料)の生産販売と養蚕の経営を行いながら、米、麦、野菜の生産も行っている豪農の長男として生まれました。若い頃から商業的な才覚が認められ、14歳の頃からは単身で藍葉の仕入れに出かけられるようになっていました。

1858年には1度目の結婚をし、1861年には江戸に出て海保漁村の門下生となり、同時に北辰一刀流の千葉栄次郎の道場に入門して、剣術修行にも励みました。勤皇志士と交友を深めるうちに、尊皇攘夷の思想に目覚めて行きます。

尊皇攘夷を唱える水戸学の徳川斉昭の実子である一橋慶喜に仕えることになり、慶喜が将軍の位に就くと、幕臣となりました。パリで行われる万国博覧会に、将軍の名代として出席する徳川昭武の随員として同行すると、各地で先進的な産業や軍備を見学し、進んだ社会に感銘を受けます。

通訳として同行していたシーボルトの長男であるアレクサンダーとは帰国後も交友を続け、赤十字社設立などに協力を受けることになります。帰国後は、フランスで学んできた株式会社制度を実践したり、新政府からの拝借金返済のために静岡で商法会所の設立に尽力しました。

1969年には大隈重信に説得されて大蔵省に入省することとなりますが、予算編成を巡って対立し、1873年には退官することになってしまいました。退官後は、官僚時代に創立を指導した第一国立銀行の総監に就き、1875年には頭取に就任します。

頭取に就任してからは、実業界に身を置くこととなり、東京瓦斯、東京海上火災保険、王子製紙などといった多種多様の企業に関わって行きます。帝国ホテルや東京証券取引所といった公的な企業も含まれていれば、麒麟麦酒やサッポロビールといった企業も名前を連ねています。

日本の資本主義の礎を築き、「資本主義の父」と言われた渋沢栄一は、日本経済の発展になくてはならない人物として、日本銀行券の初代肖像画を始め、幾度も肖像化の候補に名前が挙がっていました。しかし、最終的に採用とはならなかった理由として、渋沢栄一の変わった性癖を挙げる人がいます。

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渋沢栄一の性癖とは?

渋沢栄一には、7人の嫡出子の他に、10人の庶子がいたことが判明しているそうです。7人の嫡出子のうち、3人はコレラで他界した先妻の、4人は後妻の間に儲けられた子どもたちです。

先妻と後妻の他にも、3人以上のお妾さんや愛人の存在が認められています。儲けた子供の数は、20人とも50人とも言われていて、女好きや節操の無さが、肖像画にならなかった理由という説があるのです。

ただ、この時代の日本は社会的に力を持った男性がお妾さんを抱えることは、経済的に余裕を持っていることのステイタスとされており、社会的にも問題視されることではありませんでした。逆に、富んでいながらお妾さんも持たないのは、包容力が欠落しているとして信用されないような時代だったのです。

肖像画として選ばれなかった理由としては、もう一つの説が存在しています。それは「ヒゲが生えていなかったから」で、偽造防止の観点で見送られたというものです。

Wikipediaの渋沢栄一の記事に、

「また、当時としては珍しく多様な性癖があったとも伝えられており」

と渋沢栄一の記事に記載されていました。しかし現在はWikipediaの記事から該当の文章が削除されています。誰かが記事の文章を削除したものと考えられます。

性癖についての記述削除前

性癖についての記述削除後

大韓帝国の紙幣の顔

日本銀行券の肖像としては見送られて来ましたが、渋沢栄一には紙幣の肖像として採用された実績がありました。日本の保護国であった大韓帝国において、1902年から1904年に発行された初期の第一銀行券でした。当時の経営者だった渋沢栄一の肖像画は、1円、5円、10円の紙幣に描かれていました。

深谷駅

渋沢栄一の一万円券の裏面には東京駅が描かれます。そして、渋沢栄一の出身地にある深谷駅は、1996年に東京駅を模して建てられました。

東京駅建築時に使用したレンガが埼玉県深谷市で製造されたレンガで建てられたからで、深谷駅も同じ色のレンガで彩られています。ただ、こちらはレンガを積み上げた建物というわけでなく、「レンガタイル張」ということになっています。

からくり時計

深谷駅の北口の階段を降りると、ガラス張りの時計台があります。ガラスケースの中には、深谷市のマスコット「ふっかちゃん」がいます。

実はこの「ふっかちゃん」、7時から23時の間の毎正時には、台ごと上に上がり、時計台の屋根の中に隠れてしまいます。そこに変わって迫り上がって来るのが、渋沢栄一の人形なのです。

渋沢栄一の人形は、両手に「青い目の人形」と「市松人形」を持ち、流れる「青い目の人形」の曲に合わせて笑顔を左右の人形へ向けて首を振ります。このからくり時計は、渋沢栄一没後80年記念事業の一環として2012年に建てられたものです。渋沢栄一が、日本国際児童親善会を設立して人形を使った国際交流に尽力したことを讃えたものなのだそうです。

渋沢栄一の銅像

深谷駅北口の前には駅舎の建設時に合わせて整備された北口公園があり、その青淵広場には渋沢栄一の銅像が設置されています。まるで深谷市を訪れた人たちを歓迎するかのように、和服姿の渋沢栄一が駅舎を向いて座っています。

渋沢栄一の銅像には、深谷駅に行かなくても出会うことができます。日本銀行の外堀通り側、川を挟んだ常盤橋公園に渋沢栄一の銅像はあります。

常盤橋公園は、江戸城の常盤橋門を1933年に財団法人渋沢青淵翁記念会によって整備された公園で、残された城門の石垣は国の史跡にも指定されています。朝倉文夫によって作られた銅像は、渋沢栄一の命日(三回忌)に完成し、一旦、太平洋戦争の金属供出で撤去されましたが、1955年に再建されました。台座が高く、大きく立派な立像は、日本銀行を背に、彼が創立した第一国立銀行の方向を向いて立っています。

東京都板橋区にある東京都健康長寿センターは、渋沢栄一が初代として50年間院長を努めた養育院でした。東京都健康長寿センターにも、1925年の本院完成に合わせて建立された、坐像が設置されています。銅像は1924年に彫刻家の小倉右一郎の手によって制作され、除幕式には渋沢栄一本人も出席しました。さらに渋沢栄一の銅像や胸像は多数作られており、渋沢栄一記念館と生家では立像を見ることができます。

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